染川香澄+吹田恭子(1996)『ハンズ・オンは楽しい 見て、さわって、遊べる子どもの博物館』工作舎
ハンズ・オン(ウィキペディア調べ)
「ハンズ・オン」ということばをご存じだろうか。試しにググってみると、「体験学習を意味する教育用語。参加体験、実用的体験、インタラクティブ体験、実習、実験、体感など、体を使うことによる学習補助教育手法」という説明がヒットした。ウィキペディアの記事なのでどこまで参考になるかはわからないが、脚注を見ると、Exploratorium公式ホームページと文科省の『派遣現職教員の活動の幅を広げるハンズ・オン素材の開発と活動展開モデルの開発』から情報を引っ張ってきたようだ。おそらく大外れなことは書いていないと思われるし、簡潔にまとまっているので続きを読み進める。「一般の博物館では触れることのできない、模型や芸術作品などの展示物に実際に手を触れることで、子どもの探求心を刺激し、理解を深め、実用的知識を蓄積し、楽しむことで学習内容の定着度を上げるといった教育的付加価値を狙う」とある。どうやらハンズ・オンという概念は、博物館と相性がいいようである。ハンズ・オン(ウィキペディア):展示物に実際に手を触れることで、子どもの探求心を刺激し、理解を深め、実用的知識を蓄積し、楽しむことで学習内容の定着度を上げるための展示・教育手法
染川さんのハンズ・オン
さて、一方染川さんが考えるハンズ・オンは、ウィキペディアとは一味違う。それが分かる部分を少し引用してみよう。まずは冒頭に、「博物館なのに、ただ見るだけじゃなくて、さわって、ためして、からだ中で遊べるようになっているのです。」とある。文頭に「博物館なのに」とついているのは、染川さん自身が博物館はガラスケースの中にきれいに展示された資料を眺める場所である、というイメージを持っていたからかもしれない。そのような博物館では、当然資料に触れるなんてことはできない。いわばハンズ・オフの展示だ。また、「「ハンズ・オン」の展示は、自分の内側から湧き上がってくる欲求をそれぞれのペースで充たすことができるから楽しいのでした。大人も夢中になってしまうはずです」「私が見てきたこどもの博物館は、子ども一人一人が知的な好奇心をいっぱい開いて、安心して過ごせる場所でした。」とある。ハンズ・オンはなにも子供だけが楽しくなる展示ではない。ハンズ・オンの姿勢は、大人にも通用するようだ。そして、各々が持つ知的好奇心の充足を最も大切にしている。それゆえに楽しい。ウィキペディアのハンズ・オンの目的は、展示に触れて、楽しむことで学習内容の定着度を上げることにある。あくまで資料が先にあり、それを理解することに重点が置かれている。対して染川さんが感じたハンズ・オンは、大人も含む個々人が、安心して知的好奇心を発揮し、楽しむことに重きを置いている。資料の正しい理解はその結果に過ぎない。前者の資料に重点を置く考え方をオブジェクト・センタード、後者の来館者に重点を置く考え方をクライアント・センタードという。ハンズ・オン(染川さん):からだ中を使い展示物に働きかけることで、来館者が各々のペースで知的好奇心を充足することができる展示・教育手法
構成主義とハンズ・オン(知識論と学習論)
では、なぜハンズ・オンのとらえ方に差異が生じるのだろうか。私は、ウィキペディアと染川さん(というより染川さんが訪れた欧米の博物館)がそれぞれ別の教育観に基づいてハンズ・オンを捉えているからではないかと考えた。ウィキペディアの方は発見学習的な教育観に基づきハンズ・オンを捉えているのに対し、欧米の博物館は構成主義の立場からハンズ・オンを捉えているのではないか。
いきなり発見学習や構成主義という単語がでてきて、読者の皆さんは戸惑うかもしれない。これらの単語を説明するために、知識論(知識はどこにあるのか)と学習論(人が学ぶとはどういうことか)について少々述べていきたいと思う。
まずは知識はどこにあるかについて考えてみよう。少し突飛でテツガク的な話になるが、私たちは私たちを取り巻く世界の中に生きている。ここで言う世界は、環境と言い換えてもいいかもしれない。この世界を何らかの手段を用いて理解もしくは解釈していく営みを学習という。人が世界を理解しようとするとき、世界にはただ一つの普遍的な答えが存在し、それこそが知識であるとする考え方を実在論という。つまり、知識は学習者がいままでどんな生活をしてきていたか、どんな文化を持っているかとはお構いなしに、学習者と独立して正しい「真実」があるとする立場だ。ただ、この「真実」が少し厄介なしろものである。「真実」は一部の人の手でいくらでも作ることができるのだ。つまり捏造である。(このあたりの話はややこしくなるので、ぜひ森達也の『世界を信じるためのメソッド ぼくらの時代のメディア・リテラシー』を読んでいただきたい。)実在論の立場で知識を得ようとするとき、すくなくとも誰かに作られた「真実」のまがい物をつかまされたくはない。そこで学問の出番である。学問の役割とは、極端にいうと「真実」に限りなく近いと思われる学術的な知識を追求することである。情報の真偽を特定の方法で判定するといってもいいかもしれない。しかし、学術的な方法で「真実」にいくら近しい知識を得たとしても、学術的な方法を行使するのは人である。人である以上、どうしてもどこかで恣意性が生じる。結局知識は人と不可分であり、人と独立した「真実」は得られないのだ。だから、人々は「真実」の代わりに学術的な知識を用いるしかない。
実在論:知識は学習者と独立して存在するという考え方。ここで言う知識とは、学術的知識(≒真実)である。
一方、知識は学習者の心で、個人的または社会的な影響を受けて構成されるという考え方を観念論という。人が世界をみるとき、その人がどんな生活を送ってきていて、どんな文化を持っているかにより、見える世界が違ってくるということだ。世界のどこかに何か一つの正しい知識が存在するのではなく、一人一人の心の中にそれぞれの知識が作られるのである。しかし、そうなると、どのようにして知識を他者に伝えるのかという問題が生じてくる。なぜなら、各々が一つの事物に対して別々の知識を持っているからだ。実在論では、「真実」は(誰にとっても)いつも一つであるので、知識を他者と共有することは容易である。観念論の立場では、自分の心にある知識を共有しようとするとき、自分と他者のバックボーンも考慮しつつ説明しなければならない。
観念論:知識は学習者が世界に働きかけることで、学習者の心の中で個人的または社旗的な影響を受けて構成されるという考え方。
次に、人が学ぶとはどういうことかについて考えてみる。学習についての考え方は伝達―吸収モデルと能動的・発達的学習論に大別される。伝達―吸収モデルでは、学習とは学習者の心に1つ1つ知識が付け加えられていくことだと考えられている。ひとびとは小分けにされた知識を順番に、少しづつ取り込んでいくことで学習を進める。学校教育での学習にこのモデルの性格がよく表れている。情報が教師から生徒に向けて、一方的に送られる。教師は豊富な知識をもつほど、そしてその知識をより多く・効率的に生徒に伝えることがよしとされる。この場合、学習者は受動的な情報の受け手となる。
能動的・発達的学習論では、学習とは学習者が能動的に世界と関わり、新たな知識を作り上げていくこととされている。ライフハックの発見や卒論なんかに近いだろうか。この場合、学習者は能動的な知識の創造者となる。なんかかっこいい。
伝達―吸収モデル:学習を、学習者の心に少しずつ知識を付加していく過程であるとする考え方。学習者は受動的な情報の受け手である。
能動的・発達的学習論:学習を、学習者が能動的に世界と関わることで新たな知を作り上げていく過程であるとする考え方。学習者は能動的な知識の創造者である。
コメント
コメントを投稿