本の感想を書いていたらいつの間にか構成主義とかの話になった件 後編
もともとは『ハンズオンは楽しい』という本の感想を書いていましたが、いつの間にか風呂敷が広がっていました。がんばってたたみます。
前編はこちらからどうぞ。
本の感想を書いていたらいつの間にか構成主義とかの話になった件 前編
前編は、知識論(知識はどこにあるか)と学習論(学習とはどんなことか)の説明で終わっていたので、まずはそれらのまとめから。
知識論
実在論:知識は学習者と独立して存在するという考え方。ここで言う知識とは、学術的知識(≒真実)である。観念論:知識は学習者が世界に働きかけることで、学習者の心の中で個人的または社会的な影響を受けて構成されるという考え方。
学習論
伝達ー吸収モデル:学習を、学習者の心に少しづつ知識を付加していく過程であるとする考え方。学習者は受動的な情報の受け手である。
能動的・発達的学習論:学習を、学習者が能動的に世界と関わることで新たな知を作り上げていく過程であるとする考え方。学習者は能動的な知識の創造者である。
構成主義とハンズ・オン(教育観について)
前置きがかなり長くなってしまったが、ここから構成主義という教育観の説明に入ろうと思う。教育観(知識をどのように得るのか)は知識論と学習論の組み合わせにより、大きく以下の4つに分類できる。
解説的教育論:実在論+伝達―吸収モデル
刺激反応理論:(観念論)+伝達―吸収モデル
発見学習論:実在論+能動的・発達的学習論
構成主義:観念論+能動的・発達的学習論
上記4つの教育観について、少し詳しく見ていこう。解説的教育論では、知識と学習者の関係について、「情報の発信者が(一定の方法を使うことで)正しい(と認められた)知識を学習者の心に少しずつ付け加えていく」ものであると捉えている。この構図は、学校教育でよく見ることができる。つまり、教師が教科書の内容を、合理的な順番で少しずつ生徒に教えるという構図だ。なぜこのような構図が生まれるかというと、学校教育は制度化された教育(フォーマルな教育)だからである。学校教育の大きな目的は、すべての国民に対し、その一生を通じる人間形成の基礎として必要なものを共通に習得させることである。このことは、日本の教育基本法では「人格の完成」と表現されている。そのため、学校では良くも悪くも生徒の意思にかかわらず、一定期間に一定の内容を学習することが強制される。生徒は、このような学習の達成のため、学校が定めた一連の教育計画(カリキュラム)に従う必要がある。すべての生徒に一定ラインまでの知識を保障するという目的を持つとき、解説的教育論に即した教育は効果を発揮するのだ。以上のように、解説的教育論は、学習者に一定の知識を保障するという文脈では大変合理的な方法なのだが、パラダイムシフトに弱いという弱点が存在する。簡単に言うと、教科書が大きく書き換わるという事態に弱いのだ。このあたりを説明するとなると、とんでもなく長くなりそうなので、知りたい方は各自適当に調べていただきたい。
次に刺激反応理論についてみていこう。はじめに、私はこの理論における観念論は、実在論ではないという意味合いが強いと捉えていることを明記しておきたい。すなわち、学術的なプロセスを経ていない恣意的な情報、という意味である。よって、ここでは刺激反応理論は「恣意的な情報を情報の発信者から受信者へ一方向に伝える」という概念として扱う。この概念は、一見教育のイメージとはかけ離れているように思える。だが、戦時下の学校教育を思い浮かべてみよう。今でこそプロパガンダであると批判されるような授業が行われていたのではないだろうか。もちろん、その当時の学校関係者は「刺激反応理論に基づいた教育をしています」とはいわないだろう。教育について論ずるとき、刺激反応理論はカリキュラムや教育プログラムを批判する際に使用されることが多いようだ。
さて、いよいよ本題の発見学習論と構成主義について述べていく。この記事を書いていると、つい忘れそうになるのだが、私は『ハンズ・オンは楽しい』の感想を書いているのである。発見学習論では、学習を能動的に知識を作り上げていくものであるとしている。学習者は主体的に資料を手に取ったり、他者と協力しながら難問を解いたり、実験したりしながら知識を作り上げていく。なんだか楽しそうである。しかし、問題は知識である。発見学習論では、知識を実在論の立場で捉える。どういうことかというと、(学術的に)正しい知識を知識とみなすのである。つまり、発見学習において学習者は、資料を扱ったり実験したりすることで、正しい知識を得ることができると考えられているのだ。言い換えると、学習者は能動的に知識を作り上げることによって学ぶことができるが、その過程で作り上げられる知識は教科書に載っているような、他者によって決められた結論でなければならないのである。このことを理解しやすくするために、学校教育での化学の実験を思い浮かべてみよう。教師は生徒が実験をすることで、ある法則を学ぶだろうと考えた。ただ実験をするよりも、生徒自らが実験の計画を立てたり、器具や試薬を準備することで教育効果が高まると考え、そのような授業計画を立てた。いざ実験をしてみると、実験に失敗したグループが多数あり、教師が望んだ結果が出たグループは少数であった。だが、学校教育の授業である以上、正しい知識を教えなければならない。この例ように、学習者の主体性を尊重すればするほど、教師が望むような結果は出にくくなるのだ。教師の側からすれば、望ましい実験結果が得られるように、入念に用意する必要がある。授業の難易度が跳ね上がるのだ。発見学習にはこのような弱点がある。
最後に、構成主義について述べていこう。構成主義では、知識とは学習者の心の中で個人的または社会的な影響を受けながら形づくられていくものであるとしている。そのため、学習者が既にもっている考え方やイメージ、文化、社会的背景が重要視される。これらの既有概念のことを先行オーガナイザーという。また、構成主義において、学習とは環境と主体的に関わりながら知識を創造していくこととされる。この点は発見学習論と同じである。まとめると、構成主義とは、学習者は能動的に環境に働きかけ、個人的・社会的な影響を受けながら新たな知識を構成する、と考える立場である。学習者は新たな知を作り出す一方、学習を通じ、もともと持っていた考え方も変化させるのである。『ハンズオンは楽しい』で紹介されている、ボストン子どもの博物館の〔テレビとわたし〕と〔バブル〕という展示には、構成主義のこのような考え方が反映されているように思う。どちらの展示も、学習者が主体的に世界(この場合テレビやシャボン玉)と関われるような仕掛けが施されている。また、ある一定の解釈を押し付けたりはしていない(〔バブル〕には簡単な説明がついているものの、誰も読んでいない)。また、どちらの展示も私たちの身近な話題をテーマとしている。特に、〔テレビとわたし〕では、その名の通りテレビと自分の関係を探ることから展示がスタートしている。詳しく知りたい方は『ハンズオンは楽しい』を参照していただきたい。
構成主義とハンズ・オン(日本的ハンズ・オンと欧米的ハンズ・オン)
さて、前編ではウィキペディアのハンズ・オンと染川さんのハンズ・オンの差異について触れた。前者は日本的、後者は欧米的と言い換えてもいいかもしれない。ここで、それぞれのハンズ・オンがどのようなものであったのか振り返っておきたい。
日本的ハンズ・オン(ウィキペディアのハンズ・オン):展示物に実際に手を触れることで、子どもの探求心を刺激し、理解を深め、実用的知識を蓄積し、楽しむことで学習内容の定着度を上げるための展示・教育手法
欧米的ハンズ・オン(染川さんのハンズ・オン):からだ中を使い展示物に働きかけることで、来館者が各々のペースで知的好奇心を充足することができる展示・教育手法
前編で私は、両者の違いが生じる原因として、日本的ハンズ・オンは発見学習論に基づき定義され、欧米的ハンズ・オンは構成主義の立場から定義されているからではないかと述べた。どちらも楽しいのであるが、日本的なハンズ・オンは正解にたどり着くことが要求されているような気がして、少々息苦しさを感じてしまう。これは完全に好みの問題である。どちらの手法にも一長一短あるだろう。個人的には、博物館は学校教育とは異なる、独自の展示や教育プログラムがあった方が面白いのではないかと思っている。博物館と学校が相補的に作用することで、あらたな教育の形が生まれるのではないかと思う。
博学連携や日本でのハンズ・オン展示の広がりなど書けそうなことはあるが、かなり長くなってしまったのでこのあたりで筆をおく。なお、この記事には私見が多分に含まれ、誤りもそこかしこにあると思うのでレポートに丸写しはしない方がいいと思う。参考文献を掲載するので、そちらを参照願いたい。
《参考文献》
染川香澄+吹田恭子(1996)『ハンズ・オンは楽しい 見て、さわって、遊べる子どもの博物館』工作舎
ジョージ・E・ハイン(2010)『博物館で学ぶ』同成社
大堀哲・水島英治(2012)『新博物館学教科書 博物館学Ⅱ―博物館展持論*博物館教育論』学文社
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