博物館とは何ぞやということを考えてみた

今回は、私が「博物館とはどんなところ(であってほしい)か」という考えをまとめてみた。いつも通り主観が入りまくるし、N=1で話を進めるので話半分に読んでいただきたいと思う。

博物館とは何ぞやーよく教科書で見る話ー

    博物館をその起源から辿ると、古代ギリシア時代までさかのぼることができる。古代ギリシア時代においてミュージアムとは、ムーサ(Μοῦσα, Musa:学問・芸術を司る女神たち)の神殿であり、学術研究機関であった。15世紀‐18世紀のヨーロッパでは、世界中の珍品を収集・展示した「驚異の部屋」をつくり、権威を示す王侯・貴族・学者があらわれた。近代市民社会では、これまで特権階級のものであった知を市民に公開する機能が期待された。今日の日本においては、法律上博物館とは「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」とされている。博物館とは何か、博物館とはどうあるべきかという議論は、今日においても繰り広げられている。

「もの」への恋と博物館


 みなさんは、幼いころにドングリを拾ったことはあるだろうか。あるいは、道端に落ちている小石をポケットにいれて、母親に怒られたことはないだろうか。他者から見れば何の変哲もない「無価値な」ドングリや小石が、その時の自分にとっては紛れもない「宝物」であったはずだ。なぜ私たちは、一見無意味にも見えるこのような行為を行ってしまうのだろうか。私にははっきりとはわからない。このことについてちゃんと調べれば、心理学的・人類学的なきちんとした理由があるのかもしれない。とにもかくにも、私はドングリや小石を集めたくなる人種なのだ。そしてこのような人々はおそらく少なからずいる。この直観は当たっていると思う。ひょっとしたら、このような営みを人類はその誕生から行ってきたのかもしれない。

 博物館は上記のような営みに、よりはっきりとした形を与えるところなのではないだろうか。「集めること・分けること」は私たちが世界を認識するうえで欠かせない営為であるし、今日の知を構築してきた礎の一つであろう。生物学においては、このような「集める・分ける」という営為を分類学とよんでいる。

 「私」にとっては紛れもない宝物であるドングリだが、生活上の理由から「がらくたは捨てなさい」と言われ、ひどい時には「そんながらくた集めてどうするんだ」と嘲笑される。そして、いつしかものを集めることをやめる。私は、博物館はたわいもないドングリの価値を肯定する場所であってほしいと願っている。「もの」の面白さ・不思議さ・美しさにひかれ、あるいは言語化できない衝撃をうけ、手に入れたいと願う。少々こっぱずかしい表現だが、「ものに恋をしている」という表現が一番しっくりくる。「集めること・分けること」を駆動する衝動のことを、人々はセンスオブワンダーと言ったり、発見と言ったりするのかもしれない。

 私は、博物館とは「もの」へ恋する人々を最大限応援し、その恋心を最大限肯定し、ひいては知を愛する人々のよりどころとなる場であると定義したい。

今回はいつにもましてとりとめもない話となってしまったが、どうかご容赦願いたい。

 


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